旅先で今年初金木犀の香りを感知した。毎年新鮮にそのいい香りに驚くことに驚く。その香りを嗅ぐと甘酸っぱい気持ちになるけれど、それは金木犀が色々な意味を背負わされたからなのだろうか。アイコンにされるってのはどんな心地なんだろうか。香りに甘酸っぱい気持ちにさせられるんじゃなくて、付加された意味やイメージに甘酸っぱさを感じているだけじゃないのか。私の口癖の一つは「わっかんね」だ。
大体夜になると感傷的になるのはお決まりだが、どうも特段にダメらしい。私には心のイメージ図があって、傷ついたりするとそいつに傷がついたり、抜けないままであったり、ドロっと出てきたり、映像として浮かぶのだが、他の人もあるのだろうか。
堰き止めて滞っていた時の流れを一気に吹き飛ばす出来事が旅先であって、その滞らせていた石を持ち上げてくれた人に当たってしまいそうでダメだ。その激流に完全に今飲み込まれている。それほど堰き止めていたことも再確認してしまった。いっそ、どこか流されて遠くに行ってくれないかと願っている
悪意がない、いやむしろ善意からしてくれたことにどうしようもなく傷ついてしまった時はどうしたら良いのだろう。逆に、私もそうしているのだろうな。そして気がつけずにいる。一つ縮こまっていく。
一旦、隙間ができてしまったら風は入ってしまってもう二度と封をすることはできないということを学んだ。そして風はどこまでも行ってしまうし、飄々としているから、こんなちぐはぐな封と比べてどちらが負けるのかなんて目に見えている。風にさらわれないように鍵を何重にもかけるのだ。ぬかるみに足を踏み入れられないように奥へ奥へ。
旅行から帰ってきて堂々巡りの日々だが、自分の中の衝動というか真相に気付いてしまったかもしれないようなまだそうなのか分からないような、信じたくないだけなのか。君が世界のはじまりの純の言葉をずっとリピートしている。
「私は傷つけたい」
私は傷つけたいのか?もしかしたらそうなのかもしれないということに気がついてものすごく怖くなっている。
そうであったとしたら、その上にこのツラを被っているなんて1番たちが悪いんじゃないのか。
純のように言える潔さすらないのか、よっぽど純の方が誠実じゃないか。
傷つけたいなら心臓を一突きにすれば良いのに、それは怖くてできないんだろうおまえは。
一突きにしたという事実を背負うのも、その反動も怖いんだろう。
返り血を浴びるのが怖いなんて自分のことをめちゃくちゃ可愛いと思ってんじゃないのか。
だからあえて重傷だとわかる部分を刺してんじゃないのか私は。そんなの許されるはずがないじゃないか。
瀕死で名前を呼ばれることに愛を感じてんじゃないのか。だとしたらそれはとんでもなく醜く汚れた歪んだ感情でしかないじゃないか。
寂しさを一人で手懐けることもできないのか。
そうなのか?私は傷つけたいのか?
私は、私は。
わっかんねえよ。
こうして自分の心を死なせていくことになんの意味があるのだ。とも思うけれど、バチが当たってほしい。私は私を傷つけたくもあるのかもしれない。イメージの心が血を流していることで安心しているのかもしれない。ひどくみにくいと思う。
堂々巡りの日々はまだ続くだろうが痛むがいいよ。